高校二年寮 寮生日誌(11月10日)
11月10日(水)
キリスト教の聖書に「人を許せ」といったことが書かれている。そこで、人を許すということはどこから許すことが出来たと解釈してよいのだろうかという疑問が生まれた。相手がした失敗に対して、思うところはあるが、受容してその事柄を数日後、数週間後には完全に風化して忘れている。となればそれは人を許したと言ってもよいのだろう。しかし、いったん受け入れてみたが、口には出さないものの内心不満を持っていて、相手の行為を数か月先まで記憶し続けているという状態は許していると言えるのだろうか。これがそうは言えないということならば、サラッと書いているくせして、相当難しいことを要求しているように思う。人は失敗する生き物だ。自分も同等のことしている。と何度も自分に唱え続けても、ずっとわかっているつもりという状態が続いてしまう。理解しているつもりでも理解できないような状態のこと。どうしたらすべてに対して寛容になれるのだろうか。表面上は許していても、実際はそうでないという風にならないためにはどうしたらよいのだろうか。その一線を越えるためには、自己愛だのなんだのとまたややこしい話が付きまとってくる。だからわかりやすく説明してもらうためにK先生に自己愛について語ってもらおうと思う。